嫌いなことばを思い出す ― 2021/03/11 23:00:00
今日のこの日は東日本大震災からちょうど十年となる日だ。それとはまったく関係なく、私が嫌いなことばを思い出したので書くことにした。
まず、「目線」である。「目線」ということばを嫌っている人はいるが、私は「上から目線でものを言う」という使い方の「目線」は嫌ってはいない。むしろ、目線ということばは「上から目線」という言い回しのみであれば私は許容する。また、演劇用語での「目の向きや位置」という意味であれば問題にはしない。私が気にするのは、視線や立場という置きかえが許される場合の「目線」を、私は嫌う。
そして、「深堀」である。「しんくつ」とは読まずに「ふかぼり」と呼ぶのだろうが、どこかこなれていない感じがする。このことばは使われて20年ぐらいたつだろうか。なぜこなれていない感じがするか自分でも不思議に思っていたが、深く掘ることを何にたとえているのかがはっきりしないからだろう。とにかく穴のごとく、深く掘っていけばいい、といういんちきさが出てきているからかもしれない。深く考えるとか、深く追求するとかいえばいいのだろう。
あと、「真逆」である。「まぎゃく」というのもこなれていないことばだと思う。私は「正反対」という。多少音は増えるが、私はこちらを使う。あるページを見ると、真逆と正反対はニュアンスが違うというのだが、どのような違いなのだろうか。わたしにはわからない。
ことばは変わっているのだから、このような嫌いなことばが使われていることを容認すべきなのだろう。しかし、かつての同僚が言っていたように、「理解はするが納得はしない」。
まず、「目線」である。「目線」ということばを嫌っている人はいるが、私は「上から目線でものを言う」という使い方の「目線」は嫌ってはいない。むしろ、目線ということばは「上から目線」という言い回しのみであれば私は許容する。また、演劇用語での「目の向きや位置」という意味であれば問題にはしない。私が気にするのは、視線や立場という置きかえが許される場合の「目線」を、私は嫌う。
そして、「深堀」である。「しんくつ」とは読まずに「ふかぼり」と呼ぶのだろうが、どこかこなれていない感じがする。このことばは使われて20年ぐらいたつだろうか。なぜこなれていない感じがするか自分でも不思議に思っていたが、深く掘ることを何にたとえているのかがはっきりしないからだろう。とにかく穴のごとく、深く掘っていけばいい、といういんちきさが出てきているからかもしれない。深く考えるとか、深く追求するとかいえばいいのだろう。
あと、「真逆」である。「まぎゃく」というのもこなれていないことばだと思う。私は「正反対」という。多少音は増えるが、私はこちらを使う。あるページを見ると、真逆と正反対はニュアンスが違うというのだが、どのような違いなのだろうか。わたしにはわからない。
ことばは変わっているのだから、このような嫌いなことばが使われていることを容認すべきなのだろう。しかし、かつての同僚が言っていたように、「理解はするが納得はしない」。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://marinkyo.asablo.jp/blog/2021/03/11/9356429/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。