オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」を読む2023/05/04 22:07:01

最近図書館で借りてくる本はコンピュータか自然科学の本か語学の本なのだが、久しぶりに文学の本を借りてきた。オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」である。老眼なので大きな文字の本が読みたかったが、近くの図書館には文庫本しかない。それでも、有名な本ゆえ、複数の種類の訳がおいてある。私は光文社古典新訳文庫のほうを選んだ。

なぜこの本を読もうとしたかというと、私が興味を持ったプログラミング言語に Scala というものがあり、そういえば、「Scala しい新世界」というダジャレができるなと考えたからである。そして、ダジャレに使うのならば原典を読まなければ失礼である、という結論に至ったのである。

オルダス・ハクスリーの名前を知ったのは大学1年生のときである。教養の英語の授業でハクスリーの「若きアルキメデス」を購読したのを覚えていた。ただ、ハクスリーのことはそれからすっかり忘れてしまった。ハクスリーが「すばらしい新世界」というディストピア小説を書いたことも、いつどうやって知ったのか全く覚えていない。

ということで350ページを超える長編を約1週間で読み終えた。感想は、まあ多数の方々が思っている通りのものなのでここで書くまでもない。どうでもいいことを書いてみる。

第1章では生殖がコントロールされている場面から始まる。pp.10-11から引用する。

(前略)受精卵は孵化器に戻され、支配階級のアルファ階級とベータ階級になる受精卵は壜詰めの時期までそこにとどまる。一方、その下位のガンマ階級、デルタ階級、エプシロン階級になるものは、わずか三六時間で孵化器を出されて、ボカノフスキー法の処置へと進むことになる。(後略)

私が通った高校では、2年生になると志望に応じてα、β、γの3グループに分かれた。グループごとに複数のクラスがある。私はγだった。ということは、αやβにかなわないのかなとがっかりした。なお、どんな志望だったかということは触れないほうがいいだろう。

第4章では、<チャリング-T-タワー>という塔が出てくる。これは、訳注によれば、ロンドン中心部に実在する交差点チャリング-クロスのクロス(十字架)をTに変えているのだそうだ。このあとも、キリスト教で十字を切るしぐさの代わりにT字を切るしぐさなどが出てくる。この T が象徴的に使われているのは、T 型フォードの T から来ているのだが、私は T 型フォードよりもトヨタ(Toyota)自動車の T を連想してしまう。

第5章では、五分の四拍子のリズムというのが p.112 に出てくる。このリズムはわたしにはわからない。すばらしい新世界だからこういう拍子が実在するのだろうか。その後、原文が次のような記述になっているのを見つけた。

And then, in all but silence, in all but darkness, there followed a gradual deturgescence, a diminuendo sliding gradually, through quarter tones, down, down to a faintly whispered dominant chord that lingered on (while the five-four rhythms still pulsed below) charging the darkened seconds with an intense expectancy.

対応する訳文は次のようになっている。

それから、ほかの音がほとんどない沈黙とほぼ完全な闇の中で、徐々に収縮が起こり、ディミヌエンドで少しずつ滑り降りて、四分音ずつ音程がさがっていき、かすかにささやかれるドミナントの和音だけが余韻を引いて(その下で五分の四拍子のリズムがまだ刻まれている)数秒間の暗黒に緊迫感のある期待を含ませる。

「ワルツは四分の三拍子の音楽である」は A waltz is a piece of music in three-four time.というので、やはり five-four rhythms は 四分の五拍子という意味だろう。

ハクスリーの「すばらしい新世界」を読もうと思う2023/04/18 23:59:59

私はよく図書館に行く。そこには、私が読みそうにない本がずらりとある。とくに、文芸の棚は私には無縁だ。例外は草加図書館の後藤明生の棚で、ここにはかなり後藤の本があるが、中には貸出禁止になっているのもあるので残念だ。

ところで、最近 Scala という関数型言語を勉強していて、つい「Scala しい新世界」というダジャレを思いついた。「すばらしい新世界」とは、ドヴォルザークの交響曲のことではなく、オルダス・ハクスリーの小説の名前で、ジョージ・オーウェルの「1984年」とならぶ、ディストピア小説の傑作とされる。しかし、私はまだ読んだことがない。ダジャレにするぐらいなら読んでおけよ、と誰かに言われたような気がする。今度図書館で借りてみよう。

ゴリオ爺さんが読み通せない2020/04/25 23:00:00

最近音楽のことを考えるのが嫌になってきている。これも体の不調なのだろうが、私にとっては(音楽にとってはいいのかもしれないが)。
ということでバルザックの「ゴリオ爺さんを」読み始めたのだが、なかなか読み進められない。外国小説はどうも苦手だ。ただ、5月の連休中には読み終えたい。

オデュセイアを読み終える2019/12/02 21:47:44

オデュッセイアをやっとのことで読み終えた。全体をまんべんなく読んだとはとても言えず、むしろ拾い読みというほかないので、きちんとした感想を述べるには程遠い。

もともと読もうと思った動機が、フォーレのオペラの題材になったこと、最近読んだモラヴィアの「侮蔑」(「軽蔑」とも)で、オデュッセイアを映画のシナリオとして使うという話が出ていたこと、その他もろもろだったので、いかんせん真剣に読もうという動機に欠けていたことは事実である。おまけに、読んだ本が図書館からの借りていたもので、しかもこの本は全集というためか二段組みに収められているので活字が小さく、文字通り読みにくかったこともある。

いろいろ読みにくかった理由を挙げてきたが、私の頭の能力が足りないというのが一番の原因だと思う。今度読みたくなったときは、少年向きにリライトされたオデュッセイアを借りてこようと思う。

ホメロス「オデュッセイア」を読み進める2019/11/29 23:00:14

ホメロスの「オデュッセイア」を読んでいる。これは、フォーレのオペラ「ペネロペ」を知りたいためであって、オデュッセイアの前半で、主人公オデュッセウスが遭遇した苦難の数々の物語のところは、かなり端折って読んでいる。それでも、神と人間の交流ということを人間が認識していたことがわかる。具体的には、神が人間に試練を課す(と人間が認識している)ということはその当時からあった、ということがわかる。

よく話の中で「神様が人に与える試練の厳しさは、その人が耐えられる程度が限度だ」ということを耳にするが、それは試練に耐えた人の美談であって、試練に耐えられない人はたくさんいるだろう。

草加で用事を済ます2019/11/08 23:52:24

草加で用事を済ました。越谷がないのがちょっとつらい。

・某医院にて検査
・草加市立図書館にて文学全集ほか4冊を借りる
・某薬局で薬をもらう

まずは文学老人になる。

「壁の中」を読み終える2019/10/29 20:16:10

後藤明生の「壁の中」を読み終えた。たまたま時間があるときだったので、運がよかったといえる。

「壁の中」を読み続ける2019/10/26 21:04:14

後藤明生の「壁の中」を読み続ける。思ったより読みやすいが、まあ散らかっているなあ。

ついに後藤明生の「壁の中」を読み始める2019/10/25 22:54:31

ついに後藤明生の「壁の中」を読み始めることにした。草加市立図書館から借りてきたのだ。2週間で読み終えられるだろうか。多分無理だろうな。

短歌の論理性について考える2019/10/13 21:52:29

国語教育改革の話が出たついでに、2019年10月12日の東京新聞の夕刊にあった記事を紹介する。佐々木定綱氏の「短歌を掴む」というコラムで、佐々木氏はこう述べている「短歌は精読すれば非常に論理的に作られていることがわかる」。

私が覚えている短歌というのは百人一首を除けばわずかである(百人一首だって5首覚えているかどうか)。さて、突然思い出した短歌はこれである。

山寺の石の階下りくれば椿こぼれぬ右にひだりに

国語の教科書で読み、授業でも取り上げられたこの一首だけが残っている。なぜだろう。なお、階は「きざはし」と読む。

この歌は誰のだろう。世の中には同じように思った人がいたらしい。どうやら落合直文という人である。江戸時代から明治時代に生きた人だと知って驚いた。もっと近代の人かと思ったのだ。

さて、佐々木氏の意見に従えば、精読すれば論理的である、ということから、この歌も論理的に作られていることがわかるはずだ。教科書に出ていたほどの歌だから、きっとそうなのだろう。
では何をもって論理的というのだろうか。「犬が西向きゃ尾は東」という論理ではないだろう。少し別の角度から考えてみよう。歌が完結する、ということを前提にして(連歌は除く)、どうしてこの言葉でなければならないか、という問いがあり、その答が合理的ならば論理的、と言えるのだろう。

・なぜ場所が山寺なのか
・なぜ石の階を降りていなければいけないのか。止まっていてはいけないのか。
・椿がこぼれるという言い方をしたのはなぜか。椿はニュートンのリンゴのように、垂直に落下するのではないか。
・椿こぼれぬ、というのは実際に落下しているまさにその時を見たのか。それとも落ちた完了としての様子を表したのか。
・なぜ右と左を対比させたのか。とくに、左だけひらがなになっているのはなぜか。
・いったい、この歌の価値はどんなところにあるのだろうか。

私はこのような場面を見たことがない。落ちた椿をみるときは片側だけである。山寺の石の階を降りたことはあるが、そのときはつつじが満開から枯れかけていた季節だったからこのようなことはついぞ見たことがないのである。それにしては、なぜ、この歌を覚えているのか、さっぱりわからないのである。きっとこの歌を学んだ頃、何かがあったのだろう。