高校国語教育改革を考える2019/10/11 23:21:39

いろいろなところで、高校国語教育改革についての是非が聞こえる。といっても、私が知っているのは東京新聞を通じてだけのことであり、かつ東京新聞に掲載されている記事には高校国語教育改革に異議を唱える論調しかない。

ここでいう高校国語教育改革とは、高等学校の国語が再編されることを指す。特に、記事で問題視されていたのは、小説や詩歌を学ぶ「文学国語」が選択制になることにより、文芸に触れる頻度が低下し文化を享受する力が失われることを危惧することである。そして同時に問題視されるのは、選択制として新設された、論理的な文章を学ぶ「論理国語」に関して、実用性を重んじるあまり、国語としての味わいが無視され、内容が軽薄に陥り、無味乾燥となってしまうことを危惧することである。

「文学国語」が選択制になることで小説や詩歌に触れる機会が少くなること、「論理国語」が選択制となることで論理的な文章を学ぶ機会が増えること、これらにわたしは積極的に賛成する。なぜか。現在の国語、すなわち、「論理国語」をうっとうしく思い、「文学国語」を賛美してきた人間は、非生産的になるからだ。そのいい例が、私だ。

論理的な国語を学んでいないから、本記事のような破綻した文章しか書けない。文学的な国語が多少得意だったことから、いい気になって、現代詩や現代文学を読むことに精を出してきた。だから勤務先での仕事をフルでこなすことに嫌気がさし(勤労を百パーセント賛美するような文芸があるだろうか?)、そのためにうだつが上がらない人生を歩んできた。

以上の筋書きは、果たして論理的だろうか。私の人生がうだつが上がらない、というのは自他ともに認めるところだろう。ただ、私一人の例がすべての人たちに対して通用するわけではない。まあ、やってみてうまくいかなければ帰ればいいだけのことである。

教育の難しいところは、人文科学や社会科学の難しいところは、Aという施策で成果を上げたということを客観的に判断することが難しい、ということである。

ゆとり教育も、昔から悪玉に挙げられたし、今でもそんな声が大多数だ。しかしゆとり教育が本当に悪かったのかということは、慎重に議論されるべきだと思う。