短歌の論理性について考える2019/10/13 21:52:29

国語教育改革の話が出たついでに、2019年10月12日の東京新聞の夕刊にあった記事を紹介する。佐々木定綱氏の「短歌を掴む」というコラムで、佐々木氏はこう述べている「短歌は精読すれば非常に論理的に作られていることがわかる」。

私が覚えている短歌というのは百人一首を除けばわずかである(百人一首だって5首覚えているかどうか)。さて、突然思い出した短歌はこれである。

山寺の石の階下りくれば椿こぼれぬ右にひだりに

国語の教科書で読み、授業でも取り上げられたこの一首だけが残っている。なぜだろう。なお、階は「きざはし」と読む。

この歌は誰のだろう。世の中には同じように思った人がいたらしい。どうやら落合直文という人である。江戸時代から明治時代に生きた人だと知って驚いた。もっと近代の人かと思ったのだ。

さて、佐々木氏の意見に従えば、精読すれば論理的である、ということから、この歌も論理的に作られていることがわかるはずだ。教科書に出ていたほどの歌だから、きっとそうなのだろう。
では何をもって論理的というのだろうか。「犬が西向きゃ尾は東」という論理ではないだろう。少し別の角度から考えてみよう。歌が完結する、ということを前提にして(連歌は除く)、どうしてこの言葉でなければならないか、という問いがあり、その答が合理的ならば論理的、と言えるのだろう。

・なぜ場所が山寺なのか
・なぜ石の階を降りていなければいけないのか。止まっていてはいけないのか。
・椿がこぼれるという言い方をしたのはなぜか。椿はニュートンのリンゴのように、垂直に落下するのではないか。
・椿こぼれぬ、というのは実際に落下しているまさにその時を見たのか。それとも落ちた完了としての様子を表したのか。
・なぜ右と左を対比させたのか。とくに、左だけひらがなになっているのはなぜか。
・いったい、この歌の価値はどんなところにあるのだろうか。

私はこのような場面を見たことがない。落ちた椿をみるときは片側だけである。山寺の石の階を降りたことはあるが、そのときはつつじが満開から枯れかけていた季節だったからこのようなことはついぞ見たことがないのである。それにしては、なぜ、この歌を覚えているのか、さっぱりわからないのである。きっとこの歌を学んだ頃、何かがあったのだろう。