演奏会に行きたいと思う2023/07/01 23:59:59

新型コロナウイルスも一部では流行しているが、昔に比べれば感染者数が少なくなった。そこで、演奏会に出かけていきたいと思っている。 私は貧乏だから、プロの演奏会にはなかなか行けない。そこで、アマチュアの演奏会でいいと思っている。運よくアマチュアの演奏会に招待されたりすることがあるのだが、困るのがその演奏会の当日が自分が所属している団体の練習日になってしまうことだ。まあ、1回くらい練習をさぼって演奏会に行ってもいいのだが、練習日はかなり前から決まっているのに演奏会の招待は1週間前とか2週間前になって初めて知るようなことが多いからだ。

皮肉なことに、演奏会の招待の案内は、音楽団体に入っているから来るのだ。その音楽団体の練習があるために他の音楽団体の演奏会に行けないというのは本当に残念だ。

バッハのインベンション第1番を思い出す2023/07/02 23:59:59

バッハのインベンションはピアノで弾いていて安心する。私が弾けるのは2声のインベンションの第1番と第8番ぐらいだ。第1番は、かなりの人が聞いたことがあるのではないかと思う。

バッハインベンション第8番を思い出す2023/07/03 23:59:59

バッハのインベンションで弾けるものは2声のインベンションの第1番と第8番ぐらいだ。きびしいピアノの先生についたときに、第1番は数か月かかって修了したが、その次に進んだ第8番は結局先生の合格がもらえないままやめてしまった。今でもこの曲を弾くとき、やめてしまったことを思い出す。

クープランの第27オルドルを調べる(1)2023/07/04 23:59:59

これからしばらく4回に分けてクープランの第27オルドルを調べる。第27オルドルは4曲からなる。第1曲は高雅( L'exquise)という名前がついていて、舞曲であるアルマンドという名前が楽譜の先頭に掲げられている。私はバロックに疎いのでこのアルマンドが他の作曲家のアルマンドとどう違うのかがわからないが、後半になると細かな付点音符が現れるのが興味深い。

クープランの第27オルドルを調べる(2)2023/07/05 23:59:59

クープラン第27オルドルの第2曲はケシ( Les Pavots)という名前がついている。ケシというのは花の名前で、藤圭子が「〽赤く咲くのは けしの花」と歌っている、アレである。この発想記号に Nonchalamment. とあるのはどういうことかと思って調べたら、「のんびりと;だらしなく,無気力に.」などという語義があってびっくりした。こんなことでいいのか。


クープランの第27オルドルを調べる(3)2023/07/06 23:59:59

クープラン第27オルドルの第3曲は中国人( Les Chinois)という名前がついている。クープランの時代に、中国人はフランスにいたのだろうか。クープランには「諸国の人々」という名前の曲集があるが、中国はそれには入っていない。曲を聴いても中国らしさは感じない(もっとも、私の思っている中国らしさとは五音音階に過ぎない)。ゆるやかなクーラントのような出だしだが、後半は2拍子の快活な曲想になり、最後は3拍子のフランス風序曲にように終わる。うーむ、何なのだろう。

クープランの第27オルドルを調べる(4)2023/07/07 23:59:59

クープラン第27オルドルの第4曲(終曲)は機知(Saillie)という表題がついている。きびきびとした音楽だ。こうやって楽譜に少しだけ移しているが、装飾音を楽譜や音源に反映させることが全くできず、困ったことになったことを告白する。もっとも、音源に反映させることができたとして、どのように細部を決めるべきかには悩むだろう。

バッハの前奏曲とフーガBWV895を聴く2023/07/08 23:59:59


バッハの前奏曲とフーガBWV895を聴く(2)2023/07/09 23:59:59

前日に続いてバッハの前奏曲とフーガBWV895である。このフーガは譜面では2ページと短いが、バッハのフーガの中でかっこいいと思う。締めにナポリの六度が出てくるのも気が利いている。

死者を思う2023/07/10 23:59:59

最近暑いので音楽のことについて書けない。

私は今生きている人間だが、死んでしまった人のことを思い出すことがよくある。生きている人間が死者のために煩わされるのはあまりよくないことだと思うし、私自身は死者を思い出すだけでその死者に煩わされることは、すくなくとも具体的な結果を伴って現れることはない。

私が死者を思い出して何をするのかというと、単に長生くいきよう、ということである。私が尊敬できる人で若くして亡くなった方を思い出すと、その享年よりは長く生きようと思う。また、私が軽蔑している死者については、その死者が亡くなった年齢より長生きしてやろう、と自分の身を奮い立たせている。ただ、どちらにしても単に長生きするということにしかつながらないのが、我ながらおかしい。