ギボンズの「The Queenes Command」を聴く ― 2022/02/01 18:31:08
1月に引き続き、ギボンズの作品から第2集を聴くことにする。第2集の最初は「The Queenes Command」である。当時のスペリングはこうだったのだろうか。
https://ontomodb.jp/sakuhin-s/Gibbons-s.html
にある作品表からすると、意味は「女王の命令」だろう。
冒頭から右手が高い音域なのが気になる。女王の命令だからだろうか。
ギボンズの「Whoope doe me no harme good man or a Ground」を聴く ― 2022/02/02 23:59:59
第2集の第2曲「Whoope doe me no harme good man or a Ground」を聴いた。しかし、題名が長い。どういう意味か、ギボンズ作品表によれば「ああ、私をいじめないで、夫よ」というグラウンドらしい。それにしては、曲そのものは呑気に聞こえるのはどういうわけだろう。
ギボンズの「Sarabrand」を聴く ― 2022/02/03 23:59:59
ギボンズの第2集だい3曲は「Sarabrand」である。最初「Saraband」かと思った違う。サラブランドとはどういう意味だろうか。曲は、バイエルように始まる。
ギボンズの「Ground」を聴く ― 2022/02/04 19:16:23
ギボンズ第2集の第4曲は「Ground」である。なんの形容詞もついていない。ギボンズらしい曲想だ。といっても、私が知っている「ソールズベリー卿のパヴァーヌ」に似ている印象を受けただけである。
ギボンズの「The Woods soe Wilde」を聴く ― 2022/02/05 23:59:59
ギボンズの2巻第5曲は「The Woods soe Wilde」である。定訳は知らないが、バードにも同名の曲があり、そちらは「荒涼とした森」という訳があるようだ。
ギボンズの「Hunts up or Pescod time」を聴く ― 2022/02/06 21:54:25
ギボンズ第2集第6曲は「Hunts up or Pescod time」である。「Hunts up」のほうは「狩は終わった」とか「狩は終わりぬ」などと訳すようだ。Pescod timeはわからない。この「狩は終わった」にはバードにも同名の曲があるが、あまり似ていない。どういうわけだろうか。「The Woods soe wilde」のほうは、ギボンズとバードの曲は明らかに冒頭のメロディーは同じなのに。
将棋道場を思い出す ― 2022/02/07 23:59:59
打撃が大きいのは飲食業、とくに外食だろう。そして、業界というほど大きくはないがやはり打撃を受けているのが将棋道場である。不要不急の外出は控えましょうと言われると、どうみても将棋道場は不要不急の外出先である。ただでさえネット将棋に押されて道場に入る客は少なくなっているのに、コロナ禍で追い打ちがかかってしまった。
そんなさなか、私は某将棋道場に行ってきた。お客さんは5,6人というところだろうか。自分の対局を数局済ませて別のお客さんどうしの対局を見ていると、対局者の一人がたえずダジャレを言っているのに気付いた。こんなのがあった。「角が成る、なる、ナルシソ・イエペスか。」私はこれを聞いて吹き出しそうになるのをぐっと我慢した。将棋を指している場では必ずといっていいほどおじさんがダジャレをつぶやいていて、私もあらかたパターンは知っているつもりだったが、クラシック・ギターの巨匠が出てくるパターンは初めてだった。このおじさんは寅さんのセリフを借りれば「さしずめインテリ」なのか。そういえば、町道場にあってネット将棋にないのは、おじさんのつぶやくダジャレだったことに気づいた。
私がよく行っていた道場では、そのようなダジャレにあふれていた。ダジャレだけではない。ある人は「飛車のタダ捨て!」、「角のタダ捨て!」などと絶えず自分の手を派手に宣伝していた。そうかと思うとかなり歳のいったおじいさんは対局をしていて相手の玉に王手をかけるときかならず「おーて」と小声でつぶやいていた。将棋のルールでは、王手であっても声を出さないのがマナーであるし、実際に道場で指すときも「王手」と声を出す人はこのおじいさんしかいなかった。今となっては、こんな喧噪が懐かしい。
バッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタを聴く ― 2022/02/08 23:59:59
図書館システムを考える ― 2022/02/09 23:59:59
パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を聴く ― 2022/02/10 23:59:59
ビデオに録画していた、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いた。昔は、豪華絢爛な曲を聴いていると飽きてしまったのだが、最近は慣れてきたせいか、歳のせいか、飽きることなく聴き続けられるようになった。これは進歩というのだろうか。
たとえば、第1楽章の12小節からの一節を示す。昔はこんな単純な旋律は受けつかなかったのが、今はふつうに聴ける。
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