Oさんのピアノ2018/11/25 21:59:27

ある方の Facebook で、O さんの死去を知った。O さんは私が所属していたサークルの先輩で、私が通っていた大学の学科の先輩でもあり、さらには私がかつて1年間だけ住んでいた大学学寮の先輩でもある。その O さんが亡くなったと聞き、私は驚いた。私より数歳しか年上でないのに、こんなに早くに大作曲家たちの世界へ行ってしまうとは。

O さんの人格も、そしてO さんのピアノも高潔で、私からすればただただ敬愛するだけだった。そして O さんとはピアノの話をした覚えはなく、一緒に酒を飲んでいたか、卓を囲んでいたかだけだった。まったくもってもったいないことである。

悪い癖を承知で自分語りをする。実力もないのに鼻が高い私は、ピアノのサークルで自分の地位を得るためには他の実力者が手を出していない領域に活路を見出して自分を見出すしかなかった。本当はジャズをやりたかったがアドリブがまったくできない私はやはりクラシックにすがるほかなかった。古典派やロマン派は好きだったが、あまりにも達者な方々ばかりだった。そこで私は軸足を二本定めた。

一つはバロックだ。その中でもバッハはあえて遠ざけ、スカルラッティで勝負した。とはいえ、古典の端正な趣も好きだったから、かってにバロックの定義をハイドンまで広げた(モーツァルト以降はそれこそ達者なピアニストがわんさかいる)。さかのぼるほうはバッハより昔で、ギボンズ、バード、フレスコバルディあたりまでを視野に入れていた。

そしてもう一つが近現代だった。作曲家の時代とか、国とか切り口はいろいろある。私はフォーレに活路を見出した。フォーレは一般的に近代とはみなされない。つまり近代になりきっていないが、かといってロマン派というには軋みも苦みも豊富にある。そんなフォーレは私にうってつけだった。そうして私はレパートリーとして「ハイドン以前、フォーレ以降」を標榜するようになった。とはいえ、ドビュッシー、ラヴェルはやはり腕達者が多くいて避けていた。

言い方を変えれば、王道であるモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンなどの曲を弾く機会をサークルに入ってから私は封印した。メンデルスゾーン、シューマンはもとから関心がなかった。ブラームスは好きだったが、開拓が遅れたため弾ける曲がほとんどなかった。

O さんは、そのような王道の曲を好んで弾いていた。その演奏が実にツボにはまっていて、音楽のセンスには脱帽するしかなかった。たとえば、ルバート。私がやってみても野暮になるだけだが、O さんのルバートは実に見事だった。もちろん、センスが光るのはこれらの王道の曲だけではなかった。

O さんが弾いていた曲で私が思い出せるのは今となってはこれだけだ。
バッハ:イギリス組曲2番(パルティータ3番かもしれない、うう)
ショパン:バラード第4番、ソナタ第3番ほか多数
タレガ:アルハンブラの思い出
フォーレ:バラード
ラフマニノフ:楽興の時第1番
ドビュッシー:水の反映

フォーレについては、O さんから本を頂いた。「まるちゃん、フォーレ弾くんなら、読んどかんと」というようなことを言われたような気がする。正確にいえば、O さんからヴュイエルモーズの本を借りたのだが、敬愛するO さんがもっていた本を返すの惜しくて、本を汚したとかというわけではないのに同じ本を新しく買ってそちらを渡したのだ。たぶん天国の O さんは許してくれるだろう。

私にできることといえば、これからもピアノを弾き続けることだけである。Oさんの域までは達することのできないセンスのない私はせめて、丁寧に、やさしく、ピアノを弾くことを心がけよう。

コンクリート長屋の理事会に出席する2018/11/25 23:31:25

コンクリート長屋の理事会に出席した。一言でいうと問題山積ということだ。主には建屋の経年劣化に伴う修繕に伴う事項が多い。
世の中にはメンテナンスフリーというものが名前だけはあふれているが、実際にはそんなことはなく修繕するか取り壊すかしないといけない。

取り壊すことを考えていない最たるものは、高い建物であると思う。あるとき、知人が勤めている会社にある、高い煙突の話題になった。その煙突は老朽化によりもう使っていないのだという。どうやって取り壊すのか聞いたら、高すぎて取り壊すことは考えていないのだという。地震など災害があったらどうするのか、という問いに対しては、その時考えるというものだった。ちなみに、その煙突はその後かなりたって取り壊されたと聞いている。