冷房はすばらしいと思う2022/07/01 22:37:01

夏になった。今となっては、暑い夏を過ごすのに、冷房機なしでは考えられない。夏になると毎度のことのように、老人が部屋で死んでいた、冷房はついていなかった、というニュースが報道される。もう冷房機は、ぜいたく品ではない。

私が生まれたとき、家には冷房機がなかった。話は脱線して、高度成長期には登場した3Cのことを語ろう。

3Cのうち、車(Car)は、私が小学校3年か4年のときに来た。もっとも、普通自動車ではなく軽自動車で、夏場に家族4人で国道17号線の三国峠をえっちらおっちら登って行ったことを思い出す。夏は暑いからというので夜に家を出たので、ドライブインに立ち寄るのも夜になる。真夜中でもドライブインは営業していて、家族で入るとドライブインでは私とほぼ年が同じような子供が注文を取ったり食事を出したりした。家族で働くというのは大変なことだと思った。

ついで登場したのはカラーテレビ(Color television)だった。機種も覚えている。三洋電機の「ズバコン」つきカラーテレビだった。超音波のついたリモコンでチャンネルを回せる、すばらしい機械だった。あまりにもチャンネルを回しすぎて接点が摩耗してしまい、テレビが映らなくなってしまった。父が思いついた策は、強力な輪ゴムを用意してその輪ゴムでチャンネルに時計回りへのモーメントをかけ、かろうじて生き残っているチャンネルの接点を確保するようにしたのだった。この延命策も数年はもたなかったと思う。ズバコンテレビを廃棄してから数年後、会社に入って覚えたのが特許の一覧を見ることだった。すると某金属会社から「接点維持方法」とか「接点回復方法」とか、特許がいろいろ公開されていることを知った。これらを見ると、接点を意味もなく摩耗させてしまった悪事を思い出した。

3C のうち最後に家に来たのが冷房機(クーラー、Cooler)である。正式には空気調和設備(Air Conditioner)と呼ぶのが正しいのだろうが、やはり日本の夏にはクーラーという名前がふさわしい。家にクーラーが来た頃、私は家にいなかった。学生生活の最後の1年間は学生寮に入っていたし、その後の社会人になってからは会社の独身寮に入っていたので、実家には年に数回帰るぐらいだった。ある夏、私はまだ学生だったか、それとも社会人になっていたのかは忘れたが、実家に行ったら、いつの間にかクーラーが居間に鎮座ましましていたのだった。私はそれほどおどろいたりすることはなかった。日本の夏は暑いから、クーラーはあって当然だろうと思ったのだ。

しかし、私は冷房をありがたがる気にはならなかった。(ひょっとしたら続く)

チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」を聴く(1)2022/07/02 23:59:59

チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」を聴いた。私はいつも「ロミオ」か「ロメオ」かわからなくなるが、とりあえず「ロミオ」を採用しておく。まずは序奏である。修道僧ロレンスを表しているのだそうだが、修道僧ロレンスというのがどういう役回りだかさっぱりわからないのが情けない。

この序奏には途中でチェロのメロディが出てくる。時間があれば書きたい。

チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」を聴く(2)2022/07/03 23:59:59

序奏のあとは第1主題である。モンタギュー家とキャピュレット家の争いを表しているのだそうだ。私はここを聴くと、チャイコフスキーの第6交響曲第1楽章の展開部の入りを思い出す。途中で弦楽器群がロ短調の音階を上下する(コントラバスは一部)個所が出てくると、チャイコフスキーは、こういうのが好きなのか、と思ってしまう。チャイコフスキーの第4交響曲のフィナーレでは、弦楽器だけでなくほぼ全楽器で音階を弾くのだった。

チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」を聴く(3)2022/07/04 23:59:59

ロミオとジュリエットの第2主題はロミオとジュリエットの恋を表すもののようだ。私はここを聴くと、どこかラフマニノフの節回しを思い浮かぶ。

チェロが難儀な個所が 205 小節からある。ここはヴァイオリンやヴィオラと同じく divisi になるのだが、チェロだけ上と下がところどころ入れ替わるのでややこしい。

参議院選挙にあたって考える2022/07/05 23:59:59

もうすぐ参議院議員選挙の投票日だ。まだ誰に入れるかは全く決めていない。ただ、自慢してもいいことは、国会議員の選挙も、地方自治体の首長や議員の選挙も、一度も棄権したことがないことだ。もっとも、棄権を一度もしたことがない人はたくさんいるだろうからやっぱり自慢にはならない。それに、私は清き一票を投じているわけではない。人生、恥ずかしいことばかりで生きながらえてきたので、清き一票ということはない。

私の友達で、小学校の生徒会会長選挙に立候補した人物は、「清き一票はもちろん、清くない一票でも、私に投票してください」と堂々と言ってのけた。この友達が生徒会会長に当選したかどうかは覚えていない。

それはともかく、もうすぐ参議院議員選挙である。私が棄権をしたことがないのは、せっかく行使できる権利をむざむざ無にするのがもったいないからで、いってみればごはん茶碗に飯粒が一粒でも残っているともったいないから食べるように、選挙権を行使しているだけの話である。

最近久しぶりに平凡社ライブラリーの「日本残酷物語」を読み返している。本当に残酷で読み続けるのもしんどいが、残酷な目にあった民衆は、当時参政権など考えることもなかっただろう。私が拙いながら政治を考えて誰がいちばんましだろうかを考えて一票を投じているのは、多くの非道な仕打ちを受け世の中を変えたくとも変えられなかった民衆に私が負い目を感じているからでもある。

ありがたいことに、私が住んでいた(そして今住んでいる)地方自治体の首長や議員は、定数より多い立候補者がいる。つまり、住んでいた地方自治体では、首長や議員が無投票で当選したことはない。これはありがたいことだと思う。日本の多くの自治体では、首長が一人しか立候補しなかったり、議員が定数割れしているところがあるのだ。

どこかに書いたと思うのだが、私が通っていた学生寮にいた敬愛する先輩は、ある選挙で誰に投票しようかと真剣に考えたあまり、投票所から学生寮に帰る道に迷ってしまったという。わたしは投票所で迷ったことは残念ながらない。

アメリカでは、雑談として支持政党の話をするのはタブーだという話を聞く一方で、ティーパーティという、支持政党を盛り上げる会が多かったり、また異なる支持政党の支援者が討論することがよくあるとも聞く。どちらが本当かはわからないが、私の臆測では、きっと日本よりは討論をよくしているだろうと思う。

私は知人と政治の話をすることはない。たまに知人から〇〇党をよろしくという電話がかかってくることもあったが、それはそれとして聞いておくだけで、その〇〇党に投票したことはない。

まったく脈略のない文章になったが、こんなことを考えている。

ガブリエッリのチェロソナタト長調(第1楽章)を聴く2022/07/06 10:54:43

チェロソナタという名前で出版された楽譜は数多くあるが、現在聴かれているのはほんの一握りである。あまり現代では聞かれなくなった作品を調べている。最初はガブリエッリのチェロソナタト長調である。第1楽章はこうだ。

ガブリエッリのチェロソナタト長調(第2楽章)を聴く2022/07/07 23:59:59

きのうに引き続き、ガブリエッリのチェロソナタト長調である。伴奏は数字付き低音を書き起こしたものだからこれに限られるわけではない。チェロパートは、当時から重音をよく使っていたようだ。

ガブリエッリのチェロソナタト長調(第3楽章)を聴く2022/07/08 23:59:59

きのうに引き続き、ガブリエッリのチェロソナタト長調だ。第3楽章は短調に転じる。

ガブリエッリのチェロソナタト長調(第4楽章)を聴く2022/07/09 23:59:59

チェロソナタト長調の第4楽章は、ソドレミで始まっている。

投票に行く2022/07/10 23:59:59

この日は国政選挙の投票日だった。午前に指定の投票所に行き、自分なりに考えて埼玉選挙区で一票を、全国区で一票の計二票を投じた。最善だったかはわからない。