2台ピアノを聞きに行く(1)2019/05/31 23:54:19

「調性音楽の仄暮~2台ピアノによる協奏曲集」と題された公開録音を聞きに行った。場所は巣鴨駅近くの東音ホールである。

プログラムは次のとおりである。

G.フォーレ:《幻想曲 ト長調 Op.111》(1919)
K.シマノフスキ:《交響曲第4番 Op.60 「協奏的交響曲」》 (1932) [全3楽章]
スクリャービン:《ピアノ協奏曲 嬰へ短調 Op.20》 (1897) [全3楽章]
スクリャービン:《交響曲第5番 Op.60 「プロメテウス - 火の詩」》(1910)

私のお目当てはフォーレの幻想曲ト長調である。今回はこのフォーレの演奏の印象とその他雑然としたことを記す。

私は30年以上前、不遜にもこの曲を人前で弾きたいと思ったのだった。そのとき私は、ピアノ演奏を年に数回、人前で披露できる団体に所属しているふりをしていた。ふりというのは、そのころぐれていて半ばその団体をやめた状態にあったからだった。実際その団体主催の人前でのピアノ演奏は2年近くしていなかったのだけれど、その他の点ではあたかも団員のようにふるまい、他の団員もそのふるまいを容認していた。さて、その団体で用意していた演奏会のピアノは通常1台のグランドピアノだったが、当時の団員の努力や、ピアノを所有する施設の貸出者の厚意などが積み重なり、初めて2台の、それもどちらもグランドピアノが使える演奏会が企画された。私はこれを喜び、2台のピアノを弾きたいと思った。ただ困ったことがあって、やりたい曲が複数あったのだ。一つはこのフォーレの幻想曲。そしてもう一つはジャズだった。それぞれ相方も別である。企画した団員も、一人が複数ペアをかけもちして出ることはまかりならぬ、という。時間枠が限られているからだ。わたしは少し考えて、幻想曲の申し込みを取りやめた。そして、もう一つのジャズを一所懸命に取り組もうとしたのだった。

2台ピアノに関する上記の事情があったころ、私は、巣鴨に住んでいた。その、取りやめた幻想曲を30年以上たった今、巣鴨で聞くというのはなんという偶然だろう。どうでもいいことだが、そのジャズを弾いたとき、私は「新鮮果実 八百銀」と芸名をつけて舞台に上った。巣鴨にいた当時、半年弱私がアルバイトをしていた巣鴨駅前にあった実在の八百屋である。その八百屋はすでにないが、建屋は前のまま残っていた。今はアンテナショップをはじめ、複数の店舗が入っている。

さて、申し込みを取りやめる前、当時の私は幻想曲を練習していた。幻想曲はピアノとオーケストラの曲であり、オリジナルとしての2台ピアノ曲ではない。私が練習していたのはオリジナルの曲でのピアノパート、つまり第1ピアノだった。私が住んでいたのは巣鴨の学生寮で、そこには S くんという好漢が住んでいた。あるとき、私が練習していた幻想曲をS くんが聞いていた。S くんは、なんかえらい大変な曲だな、という感想をもらした。私はその感想を聞いて、生殺し、という言葉を思い出した。S くんがそういったわけではない。ただ、いつまでも続く6連符にあきれて、大変だという感想をもらしたのだろう。私は練習しながら、自分が殺される、という大仰な意識になってしまったことがあったのだろう。だから、好漢の言葉に勝手な連想をはさんでしまった。

なかなか本題である今回の演奏の印象にまでたどり着かない。調性音楽の仄暮、という題にある仄暮とはなんという意味だろう。なんと読むのだろう。仄は、「ほのか」というはずだ。仄聞(そくぶん)という言葉がある。どこかでちょっときいたこと、という意味ではなかったか。だったら、調性音楽の退潮ということなのだろう。たそがれ、という言葉はよく使うがそれならば黄昏という字をあてはめるはずだ。わからないままにしておくのは悔しかったのでインターネットで調べたら、<わずかに暮れかかったころ。夕暮れどき>という意味だということがわかった。そして読みは「そくぼ」だった。では、なぜ、フォーレの幻想曲が調性音楽の仄暮という題で取り上げられたのだろうか。解説を見てもわからない。というのは、ここで配られた解説は、公開録音後半のスクリャービンの2曲についてだけであって、フォーレの幻想曲については取り上げられていないからだ。

フォーレは調性音楽に過度なほど執着した作曲家である。特異な和声進行も、教会旋法・全音階への偏執も、調性音楽を守るための道具立てだった。その意味で、調性音楽の退潮の、調性音楽側に立つ代表者としてフォーレを挙げても、間違いではあるまい。ではなぜ幻想曲か。フォーレに2台ピアノの曲はほかにはない。強いてあげればバラードだろう。バラードは、もともと独奏ピアノ曲として作曲された。そして、リストの勧めもあり、フォーレは独奏部分のピアノと伴奏部分のオーケストラに分けた版も作ったのだった。こういう流れでいけば伴奏部分のオーケストラ部分をピアノに起こした譜面があるのだろうが、私は知らない。強いてあげれば、と記したのは2台ピアノの版があるか、わたしは知らないからである。かくなる事情で、2台ピアノとしてフォーレの作品を取り上げるのなら必然的に幻想曲のみとなる。

ということで自分を納得させて公開録音の会場に向かった。会場の前には受付係がいた。予約制だったことを思い出し、受付係に自分の名前を告げた。受付係は私の名前を予約簿と照合し、私の名前があることを見出し、私に会場入りを促した。私は会場に入った。

公開録音の会場には40席程度の客席があり、すでに数人が座っていた。ピアノは2台置かれていて、向かって左側のピアノを調律師が調律している最中だった。私は向かって五列1組の中央の席に座って開演時間が来るのを待った。しばらくして青年が私の席の一つおいて右側に座った。そして別の男が私の席の一つおいて左側に座った。左側の男は何となく見知った男だったが、私はあいさつをしてよいか迷い、とうとうしなかった。私には他人の顔の認識能力がまるでない。見知らぬ人にあいさつするような失礼なことをしたら迷惑だろう。

そうこうしているうちに開演時間が近づいてきた。左側のピアノの調律を終えた調律師は右側に移動した。時計を見ると5分ぐらいしかない。調律は大丈夫だろうか。限られた時間のなか、特定の音のみ絞って調律をするしかない、と思ったのだろう。半音階で音を1つ1つ出しながら、これはと思った音だけを選び、チューナーを動かした。こうして調律師は右側のピアノの調律を手短に済ませ、予定の時間を数分遅らせただけで退場した。

調律完了後すぐに、録音企画者と思しき人があいさつに立った。挨拶が終わった後、ピアニスト2人が入場した。浦壁信二氏と大井浩明氏である。浦壁氏の演奏はこれまでに1度、大井氏の演奏はこれまでに2度、聴いたことがある。今回の幻想曲では、第1ピアノが大井浩明氏、第2ピアノが浦壁信二氏であった。私の正面には浦壁氏が、私の左斜め前には大井氏が座った。

大井氏のピアノで始まった幻想曲は、私の知っているフォーレの幻想曲 op. 111 だった。あたりまえだが、予測可能なことはありがたいことだ。世の中には予測通りいかないことがあって疲れてしまうのだが、クラシックの演奏会というのは知っている曲を聴く分には疲れない。心地よくて眠ってしまうことさえある。しかし、今回は眠ることはないだろう。大井氏の演奏は、少しリズムに特徴をつけているようにも聞こえたが、たいしたことではないのだろう。

予測可能とはいっても、この曲は、少なくとも第1ピアノは難しい。私にとって難しいのであって、プロにとっては易しいのではないか、そう思う人がいるかもしれない。ところが、フォーレの曲を完璧に弾くことは難しい。少なくとも、演奏者にとってはエラーをしやすく、聴衆はエラーを見つけやすい、そのような曲をフォーレは作っている。もちろん、フォーレにそんな意図はないだろう。しかし、この公開録音は調性音楽の仄暮がテーマである。調性音楽というのは、調性という依拠がある音楽である。調性という依拠は強すぎるため、聴衆にとってはその依拠からの差異がわかりやすい。そしてフォーレの音楽は演奏者にとってやっかいである。というのは、フォーレの音楽は調性という依拠にこそ従っているものの、転調やら旋法やら、調性を時間的に浮き立たせるための差異がはなはだひねくれているからだ。頭では理解できるが体で表現できるようになるには相当な熟練が必要だと私はおぼろげに思っている。私がこうしてフォーレを昔から聴いているのは、その差異が楽しいからだ。

さて、お二人の演奏は、三部形式の第一部、すなわち提示部は楽譜の通りであった。そして、三部形式の第二部、すなわち展開部でさきに述べた差異がわずかに感じられるようになった。というのは、演奏が楽譜と違うのではないかという恐れが出てきたからだ。端的にはミスタッチというものがそうだが、それ以外にもリズムやテンポのずれが出てくる。お二人ともプロであるが、やはり楽譜に書かれていることから外れているところがわずかに現れる。それが思わず心惹かれるときもあれば、まずいのではないかと疑うときも出てくる。そして、そのようなずれは三部形式であるこの幻想曲の第三部、いわゆる再現部でさらに増すのだった。そしてある場所で、これはおかしい、と思える個所を聞き取った。楽譜上絶対音で Fis となるべき個所が F に聞こえたのだ。しかし、これは逆かもしれない。あるいは、楽譜通りお二人は弾いていたにもかかわらず私が聞き間違いをしていたのかもしれない。だいたい、私はその F だか Fis を弾いたのがお二人のどちらかも認識できなかった。いや、そのときは認識したのだけれど時間の経過とともにそのような具体的な違いは溶解したのだろう。F か Fis か、それだけが幻想曲が終わるまでずっと頭に残ってしまった。困ったことだ。ト長調の主和音が鳴って幻想曲が終わり、観客の拍手が聞こえた。私も拍手をしたが、F か Fis かの問は消えずに残っていた。(つづく)