忘年会スルーを考える2019/12/10 23:51:29

世の中では「忘年会スルー」ということばが聞かれるようだ。私の立場は不明確である。

まず、忘年会とはどういうものか。狭い意味では、12 月に行う飲み会で、歓迎会なり壮行会なりという名目がない宴会のことであろう。もう少し付け加えれば、会社なり組織といった、ある程度お固い組織が主催して、なおかつ構成員への参加が明示的あるいは暗黙的に義務付けられる宴会だろう。

そして、忘年会スルーとは、参加を義務付けられた行事に、構成員である当人が参加しないことをいうのだと思う。

さて、忘年会に参加するといいことはどんなことか?悪いことはどんなことか。参加・不参加の根拠はどんなことか? こういった理由をインターネットで見てみた。

すると、忘年会スルーを決めた人の中で多かった意見はこういうものだった:「忘年会でコミュニケーションを深めましょうと偉い人はいうが、そもそもコミュニケーションをとる場所はふだんの仕事の場であるべきだ。忘年会の力を借りるというのは、偉い人にコミュニケーションの力がないことを示しているに等しい。ゆえに私は欠席する」

これは納得できる意見である。事実、組織での忘年会へ行くと、初めこそぎくしゃくしながら偉い人と下の人が話しているが、いつの間にやら会の半ばで偉い人同士が話しはじめ、終わりとなれば偉い人どうしは離れない。当然、下の人も下の人どうしと話している。これは当初の意図ではない。よって、忘年会スルーの意見が出てくる。

それから、忘年会スルーの理由として、酒が嫌い、飲めない、という体質が挙げられる。飲める人も飲めない人も一律同額の費用を請求されるのは飲めない人にとっては割に合わない、と感じるだろう。私は飲んでしまう人間だから、飲めない人には申し訳ない、と心の中で申し訳なく思いながら同額の金を払っている。もちろん、飲んだ人が高めになるような場であれば喜んで支払う。

酒の話の延長にはハラスメントがある。酒を強要するアルコールハラスメント、地位を盾に無理な要求を押し付けるパワーハラスメント、性に関する不愉快な言動をし、強要を迫るセクシャルハラスメントなど、枚挙にいとまがない。

私は忘年会が好きだが、今年は積極的に参加しようかどうか迷っている。12月7日に行われたうぐいすの会は総勢20名程度だった。この程度の人数ならば大丈夫だが、これ以上の人となると体調が悪いため終わりまで持ちこたえられるかどうか、自信がない。

勤務先組織の忘年会は事情があり行けない。これははっきりしている。問題はもう一つの忘年会である。私は勤務先組織に準じる集団に属していて、このプロジェクトが12月に完了する。そしてその打ち上げが忘年会の体をとっている。忘年会の場所を確保する都合上予備的に出欠の意向を聴かれた時には欠席の返事をした。体調が悪く、大人数での宴席は耐えられないと判断したためだ。しかし、正式出欠を聞かれた時は、一次会だけ出席することにした。大人数のでの宴席は耐えられないとしても、この集団での私の立場は、コミュニケーションを円滑におこなう立場にある。ということで、酒の力を借りる、という、忘年会スルーの人からすれば唾棄すべき目的のために出席を選んだのだった。これは悩んだ結果の決断だった。

さて、私が悩んでいる、一番の大きな悩みがある。これは忘年会だけでなく宴席によくあることなのだが、食べ物の残り物だ。私はこれが嫌いで自分が不健康になることを顧みず自分の食べ物から共通の食べ物まで食べて、さらにそれらを食べつくしたときは人の食べくさしまで食べることにしている。ところが私を目ざとく見つけて話しかけてくる変わり者がいる。すると、受け答えをしないといけなくなり、残り物が食べられなくなった私は、コミュニケーションも食べ物も中途半端な状態になってしまうのだ。

こんどの集団での忘年会で私は、どのようにふるまおうか。コミュニケーションは人に任せて、私は食べ物を食べつくすことに専念しようか。すると、忘年会に参加する意味がないような気がした。