遠いところの人を思う2019/08/19 22:23:44

私は他人におせっかいを焼くことはないが、たまに妙なおせっかいを焼くことがある。

私はむかし、ピアノを弾くXという集団に出入りしていた。その集団Xに、育ちのよさそうな二十歳前の若者が来た。この若者は私に向かって、ピアノを教えてくださいと懇願した。正直私は困ってしまった。だいたい、私はピアノを教えたことなどないのに、そして集団 X には私以外にもたくさんピアノを弾く人がいるというのに、なぜ若者は私を選んでそんなことを尋ねたのか。選ぶも何も、そのときは私しかいなかったのだろうか。今となっては思い出せない。

しかし、これから述べることははっきり覚えている。無駄に悩んでいても仕方がないと肚を決めた。まずは教本を買って練習しろ、教本だったら一番バイエルがポピュラーだからそれを買え、と命令した。いい大人がバイエルというのも気がひけたが、口から出た言葉はもとには戻らない。私は若者を連れていき、集団Xの本拠地の近くにあった本屋だかレコード屋に行った。壁にあった棚をみると、1棚の半分ほどの狭いスペースに楽譜があり、そこにバイエルがあったので若者にバイエルを買わせた。ここでいうバイエルとは、子供用の赤いバイエルでも黄色いバイエルでもなく、無味乾燥の大人のバイエルである。

私がしたことはバイエルを買わせたことだけだった。それ以外は覚えていない。私がしたことといえば、若者からの質問に対して、自分なりの誠意をもって答えただけであり、弾き方などは(請われることがあれば教えていたが)ほとんど教えなかったような気がする(あとで知ったことだが、若者は子供のころ、別の鍵盤楽器を練習したことがあったようだ)。若者は熱心にバイエルを練習して、その甲斐あってどんどん上達し、バイエルを卒業した。その卒業前後で、もとから若者自身には弾きたい曲があったし、若者自身も曲を作ってみたいと思っていたようだ。そして、若者は前から弾きたかった曲も、自作の曲も、弾けるようになっていった。もう私の出番はなかった。

この若者は、今では音楽を飯の種にして生活しているようだ。もう遠いところの人である。

この若者の名前を思い出して検索してみた。すると、この名前であるブログが見つかった。そのブログにある、当時の若者の回顧談を見ると、どうも私を思わせる記述がある(ちなみにバイエルという文字は出てこないので念のため)。これだけで、私の人生は良しとすべきだろう。