嫌いなことばを思い出す2021/03/11 23:00:00

今日のこの日は東日本大震災からちょうど十年となる日だ。それとはまったく関係なく、私が嫌いなことばを思い出したので書くことにした。

まず、「目線」である。「目線」ということばを嫌っている人はいるが、私は「上から目線でものを言う」という使い方の「目線」は嫌ってはいない。むしろ、目線ということばは「上から目線」という言い回しのみであれば私は許容する。また、演劇用語での「目の向きや位置」という意味であれば問題にはしない。私が気にするのは、視線や立場という置きかえが許される場合の「目線」を、私は嫌う。

そして、「深堀」である。「しんくつ」とは読まずに「ふかぼり」と呼ぶのだろうが、どこかこなれていない感じがする。このことばは使われて20年ぐらいたつだろうか。なぜこなれていない感じがするか自分でも不思議に思っていたが、深く掘ることを何にたとえているのかがはっきりしないからだろう。とにかく穴のごとく、深く掘っていけばいい、といういんちきさが出てきているからかもしれない。深く考えるとか、深く追求するとかいえばいいのだろう。

あと、「真逆」である。「まぎゃく」というのもこなれていないことばだと思う。私は「正反対」という。多少音は増えるが、私はこちらを使う。あるページを見ると、真逆と正反対はニュアンスが違うというのだが、どのような違いなのだろうか。わたしにはわからない。

ことばは変わっているのだから、このような嫌いなことばが使われていることを容認すべきなのだろう。しかし、かつての同僚が言っていたように、「理解はするが納得はしない」。

ドッツァウアー113 の練習曲から No.51 を練習する2021/03/12 23:00:00

チェロの練習曲として有名な、ドッツァウアー(Dotzauer) 113 の練習曲から No.51 を練習している。 音程が取りにくいので、6/8拍子の原曲の裏拍だけを抜き出して和声構造がわかるようにした。ついでに音源も作った。

ハイドン交響曲第83番「めんどり」を聴く2021/03/13 15:35:03

ハイドンの交響曲第83番ト短調「めんどり」を聴いた。第1楽章の第2主題がめんどりの鳴き声を思わせることからこの名がある。 めんどりの鳴き方はいろいろあるのだな。

ハイドンの交響曲第84番を聴く2021/03/14 17:52:22

ハイドンの交響曲第84番変ホ長調を聴いた。第4楽章を聴いていると、モーツァルトの歌劇「魔笛」の序曲を思い出す。「魔笛」が初演されたのは1791年だ。一方、この交響曲が作られたのは1786年だからそれほど違わない。

ハイドンの交響曲第84番変ホ長調を聴く2021/03/15 23:00:00

ハイドンの交響曲第84番変ホ長調を聴いた。譜面は第4楽章である。冒頭、弦楽器のほか、管楽器はファゴットだけである。このファゴットが浮き立って聞こえるところと、全楽器の休符が入るところがいい。

幸田浩子の歌を聴く2021/03/16 23:00:00

少し前のことになるが、2021年3月6日土曜日に、幸田浩子のソプラノ・リサイタルを聴きに行った。場所は越谷市のサンシティホール(小ホール)であった。当日の曲目は次のページにある:

[幸田浩子ソプラノ・リサイタル【アンコール曲情報】:http://www.suncityhall.jp/report/post_1186.html]

補足すると、当初の予定では「中田喜直(阪田寛夫:詞) はなやぐ朝」が歌われる予定だったが、代わりに「團伊玖磨(江間章子:詞) 花の街」が歌われた。差し替えた理由は、幸田さんいわく、「春らしい曲がいいと思って」。

前半でちょっと驚いたのは、「伊藤康英(金子みすゞ:詞) このみち」の伴奏だった。点描風に置かれる和音が、フォーレの歌曲、たとえば「秘密」などの伴奏と似ていた。伊藤康英は主に吹奏楽の作品で知られる作曲家だが、このような静かな曲も書いているとは知らなかった。

後半はプッチーニの作品が歌われた。最後の《私の名はミミ》を聴きながら、合唱団に席を置いていた数十年まえのことを思い出した。合唱団のあるソプラノが内輪の発表会で歌うというので私がピアノで伴奏したのだった。つたない私の伴奏にソプラノはいろいろ的確な指示を出してくれて、私も少しだけ歌の伴奏で成長したような気がした。そんな昔を懐かしがっている私は、もう爺さんになったということなのか。

ハイドンのオルガン協奏曲第1番を聴く2021/03/17 23:00:00

ハイドンのオルガン協奏曲第1番ハ長調を聴いた。ハイドンのオルガン協奏曲は、多くは鍵盤楽器のために書かれたものであり、それがオルガンであるか、はたまたチェンバロであるか、ピアノであるかははっきりしないようなことが言われている。この作品は、鍵盤楽器としてオルガンを充てるのが普通だ。今回は第3楽章の冒頭を示す。明るい。

ハイドンのオルガン協奏曲第3番を聴く2021/03/18 23:00:00

ハイドンのオルガン協奏曲第3番ハ長調を聴いた。第1番とそれほど変わりはないようだ。明るく、楽しい。

ハイドンのオルガン協奏曲第2番を聴く2021/03/19 23:00:00

ハイドンのオルガン協奏曲第2番 Hob.XVIII:8 を聴いた。2本のトランペットとティンパニが任意であるが、これらがあると華がある。楽譜を書こうと思ったが、IMSLP にはない。第1楽章の冒頭をわかる範囲で楽譜に起こしてみた。肝心のオルガンのソロはまだ出てこないので書いていない。


さて、ハイドンの作品を聴いた感想を長い間このブログにつづってきたが、今日でひとまず終わりとする。というのも、昔買った、 ハイドン作品40枚CD組(www.hmv.co.jp)を聴き終えたからだ。本当は残りのハイドンの交響曲も聴きたいが、それまでに自分の寿命が尽きてしまうかもしれない。次回からは、ほかの作曲家の作品も紹介したい。

ドッツアウアー 113 の練習曲より第2巻を練習する2021/03/20 23:00:00

ドッツァウアー 113 の練習曲より第2巻目次
自分のブログの記事は、質はおろか、量さえもブログの水準に達していないと思う。そんないいわけはともかく、ハイドンが一段落したので今度はドッツアウアーの 113 の練習曲を練習した感想を書くことにしよう。

どこかで書いたことがあるかもしれないが、私は2019 年の夏の終わりからチェロを習いに先生のお宅に行っている。頻度は1か月に2度だ。この頻度は習い始めから今まで変わらない。緊急事態宣言が発出されてからも変わらない。最初の緊急事態宣言が出ているときは本当に電車に人がいなかった。チェロをかついでいる姿は目立つから、ひょっとしたら「緊急事態宣言が出ているのに不要不急の外出とは何事だ!」と叱責されることを覚悟していたのだった。しかし今のところ、そのような叱責を面と向かって受けたことはない。

さて、話を戻す。私は最初、ウェルナーの練習曲を持って行った。ウェルナーは上巻と下巻があって、私がもっているのは上巻だけだった。上巻が終わったら下巻に行くのだろうと思っていたら、先生は次はドッツァウアーをやりましょうというのだった。しかも、ドッツァウアーの1巻ではなくて2巻からでいいという。ウェルナーをやったのなら、ドッツァウアーの1巻はウェルナーと同じことが多いから、というのが理由だった。私は習いに行く前にドッツアウアーの1巻と2巻を買っていて、せっかく買った1巻が無駄になるなあ、と思いながら、まあ1巻は暇なときに自分でさらうか、と前向きに考えることにした。

さて、ドッツアウアーの2巻である。私はいま中盤を過ぎたあたりであるが、息も絶え絶えである。これは誇張ではない。1曲の半分まで行く前にミスをして、息をハアハア切らしているのである。私が生きているうちに、ドッツァウアーの2巻は終わるだろうか。

ここで、ドッツァウアーの第2巻の目次の画像をお目にかける。これだけでは難しさはわからないだろうが、目次がまったくないよりはいいだろう。