演奏会を迎える2022/11/27 23:59:59

きょうは埼玉県の某所にて本番の舞台にたった。久しぶり、と書きたいが実は先週の日曜日にも舞台に立っている。二週連続はきついが、終わってまずはホッとしている。

八重洲室内アンサンブルの定期演奏会中止の知らせを受ける2021/07/09 23:00:00

以下は、私が(休んでいるが)所属している八重洲室内アンサンブルに関してのことである。私はこの数年休みのため、生の声は聴けず、団の文書やメーリングリストから知ることのできる事実をまとめて記しただけである。判断からかなり日が過ぎているが、その分だけ冷静になれていると思う。

私が(休んでいるが)所属している八重洲室内アンサンブルは、今年の9月初めに定期演奏会を開催する予定として、場所を確保し、春から練習に励んできた。しかし、コロナウイルスの感染が拡大するなか、実施するか再検討を迫られた。ゴールデンウィーク明けを期限として団員にアンケートを募った。中止・延期の意見もあり、開催の意見もあった。またいずれか保留という立場もあった。6月半ばに下した結論は、「中止」であった。理由はいろいろあるが、詳細に書きにくいところがあるので中止の個別の理由列挙は控える。

ただ、判断にあたって、団では「多くの専門家の話によれば、デルタ株による感染拡大とオリンピック・パラリンピック開催に伴う人の流れの増加などで8~9月に再度の緊急事態宣言の発出が避けられそうにない状況のよう」だという見通しを立てていた。この見通しは結果的に、正しくもあったし誤ってもいた。というのは、東京における4度目の緊急事態宣言は2021年7月12日から同年8月22日までに発出されることになり、8月も対象になるという意味では正しいが、発出された開始月は7月だったので、甘い見通しだったといえる。それはともかく、中止を決めたのは妥当だったと思う。

演奏会に行こうかどうか迷う2021/07/03 23:00:00

新型コロナウイルスが猛威を振るっているが、演奏会が少しずつ増えている気がする。ただ、私は臆病なのか、なかなか演奏会に行こうという気にはならない。今までなら行きたい演奏会があれば少し無理して行っていたが、今では「コロナだから」という理由を錦の御旗にして演奏会に行かないことができてしまう。

先月(6月)は一度も行かなかった。先々月(5月)は2回行った。4月は行かず、3月は1度だけだった。1月、2月は行っていない。

さて、7月はどうしようか。気になる演奏会がある。もし行けたらば、その後報告したい。それにしても、不要不急の外出は控えろ、と言っておきながらオリンピックを開催するのは、どう考えてもおかしい。

バッハ「シャコンヌ」を聴く2021/05/20 21:47:02

土曜日に行った、竹澤恭子のヴァイオリンと福田進一のギターを聴きに行くの感想文の続きを書くことにする。前半の、パガニーニ「チェントーネ・ディ・ソナタ」第1番、ギターソロでソルの「魔笛の主題による変奏曲」、シューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」についてはすでにリンク先で書いた通りだ。

後半は、竹澤恭子のソロで、バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調より「シャコンヌ」を聴いた。

このシャコンヌは、小学生の高学年のことからよく聞いていた。こましゃくれたガキである。私が親から買ってもらったレコードのことをどこかで書いたことがある。「世界の名曲」という24巻組の全集があり、そのなかから「バッハII」、「リスト」、「ショパン」、「シューベルト」、「その他」の5巻をもっていた。1巻あたり2枚のLPがあった。バッハIの2枚組のレコードの1枚めには、管弦楽組曲第2番とブランデンブルク協奏曲第5番があり、2枚目にはオルガン曲がA面に、無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番がB面に入っていた。無伴奏ヴァイオリンの演奏者はたしかグリュミオーだったはずだ。レコードだから、シャコンヌだけ取り出して聞くということはせず、ひたすらアルマンドから聞いていた。だから今でも、シャコンヌだけ取りだして演奏されるのは、違和感が残る。

この第2番全部を実演で聞いたことは、まだないはずだ。シャコンヌだけなら、日本の女性ヴァイオリニストの演奏で聴いたことを覚えている。たしか、前橋汀子だったと思う。そこは立派なコンサートホールではなく、ある企業の保養所みたいなところの落成式で聴いたのだと思う。

なかなか竹澤恭子の演奏にたどりつかないが、それもいいのではないか。演奏は非常によかったので、それ以上書きようがないのだ。どこがよかったは、あとで楽譜を出して示そうと思う。

世間一般のクラシックファンはこの曲を無伴奏ヴァイオリンの曲だと思っているだろうし、それは正しい認識だが、私の知る一部の環境では、このバッハのオリジナルの無伴奏ヴァイオリンではなく、フェルッチョ・ブゾーニのピアノ編曲版で聴くのが普通のようなのだ。私自身はそんな環境におかれてはいないはずなのだが、ひょっとしたら、確かに実演で聴いたのはヴァイオリンのそれが2回だけなのに対し、編曲版のピアノは2回以上聴いたような気がする。

少し前に、楽譜を出してといった。ではまず、バッハのシャコンヌの冒頭をお見せしよう。無伴奏ヴァイオリンや無伴奏チェロを聴くときの問題は、楽譜で書かれた和音が同時に鳴らず、かつ弓で弾いている以外の音の減衰が速いことである。おそらく聴き手は、この楽譜のように聴くことを前提として作曲しているのだろうが、そこまでを聴き手に求めることは酷であろう。少なくとも、私にはできない。それでも、竹澤恭子の気迫を目の当たりにして、このような音楽を奏でようとする意思が、私には伝わってきた。

バッハ:シャコンヌ冒頭

シャコンヌは第1のクライマックスのあと、穏やかな長調に転ずるが、再度ニ短調に転じ、新たなクライマックスを迎える。それが下記の楽譜の部分だ。擦弦楽器に固有の、開放弦と非開放弦を交互に弾くバリオラージュによって、緊張感が高まっている。ここまでもっていく竹澤の腕はさすがだと思った。

バッハ:シャコンヌ・バリオラージュ部

ピアノ編曲=トランスクリプションとして有名なブゾーニによるシャコンヌは、バリオラージュに相当する箇所について、ossia として同音打鍵の刻みを徐々に細かくする手法を開発している。ブゾーニの技には感嘆するが、少なくともここに関してはヴァイオリン原曲にはかなわないだろう。

バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ・バリオラージュ対応部

なお、シャコンヌのバリオラージュについては、下記が参考になる。 http://jymid.music.coocan.jp/kaisetu/ciaccona.htm

ソルの「魔笛の主題による変奏曲」を聴く2021/05/18 20:33:31

土曜日に行った、竹澤恭子のヴァイオリンと福田進一のギターを聴きに行くの感想文の続きを書くことにする。パガニーニ「チェントーネ・ディ・ソナタ」第1番に引き続き演奏されたのはギターソロでソル作曲の「魔笛の主題による変奏曲」であった。

この曲はギターの古典的ソロ曲として非常に有名で、アマチュアでこの曲が弾ければ素人離れしているといってもいいだろう。私はこの曲を聴くといつも、高校1年生のときのの音楽の授業で、この曲を披露してくれたクラスの友達を思い出す。

さて、この曲はタイトルからしてモーツァルトの歌劇「魔笛」の旋律を主題にしているのだが、はて、もとはどんな旋律だったろうかと立ち止まって思い出そうとしてみた。魔笛に限らず、私はオペラのことをほとんど知らないので思い出せるはずがないことに気が付くのはさほど時間がかからなかった。そこで、オペラのボーカルスコアと対比することにしたのだが、ここだということがわかるまでに小一時間を要した。下記の譜面がその場所だ。

モーツァルト「魔笛」

速さや調、伴奏の形態は当然違う。ちなみに原曲では、伴奏の分散和音はグロッケンシュピールが担う。それらの違いを差し引いても、メロディーが少し違う。まあ、ギターの傑作になった主題なのだから、文句は言うまい。

この曲を久しぶりに聴いて驚いたのは、序奏があることだった。すっかり忘れていた。この序奏についてはあらずもがなの印象もあるが、きっとソルは序奏の必要性を感じていたのだろう。私のような素人がいうことではあるまし。さて、その序奏から主題への入りはこうなっている。

ソル「魔笛の主題による変奏曲」主題

この、人好きのする旋律は、ソルのものだ。モーツァルトのもとの旋律よりも、付点音符のおかげで、より温かみが出ている。

その後は変奏曲の伝統で、音を細かくしたり、短調になったり、速くなったりして変化がつけられる。第5変奏の後半を寸足らずだが掲げる。

ソル「魔笛の主題による変奏曲」より第5変奏後半

私はこの曲を聴くと、ここの下段、一番上の E の音がきちんと響いてくれることを期待する。もちろん、福田進一はここをきちんと響かせていたが、そこに行くまでの細かな音の動きが少し手なりに進み過ぎているのではないか。少し遅くともいいので粒の立った音を期待していた。ぜいたくな望みだろうか。

竹澤恭子のヴァイオリンと福田進一のギターを聴きに行く2021/05/15 21:29:12

今日は、 竹澤恭子&福田進一 デュオ・リサイタルを聴きに行った。サンシティクラシック・ティータイムコンサートの第183回である。前回の第182回は、幸田浩子ソプラノリサイタルであり、そのときのことは幸田浩子の歌を聴きに行くに書いた。 今回の曲目はそのうちサンシティホールのページに載ると思うが、私が書くことにする。

  • パガニーニ:チェントーネ・ディ・ソナタ Op.64-No.1 (Op.64-No.4より変更)
  • ソル:モーツァルト「魔笛」の主題による変奏曲 [ギター・ソロ]
  • シューベルト:アルペジョーネ・ソナタ
  • (休憩)
  • バッハ:シャコンヌ [ヴァイオリン・ソロ]
  • 加藤昌則: ケルトスピリッツ
  • ピアソラ:「タンゴの歴史」より  カフェ1930〜ナイトクラブ1960

アンコールは、ファリャの「スペイン舞曲」より「ホタ」であった。

細かなことは追って書くつもりだが、思ったよりヴァイオリンとギターが調和するので驚いた。

幸田浩子の歌を聴く2021/03/16 23:00:00

少し前のことになるが、2021年3月6日土曜日に、幸田浩子のソプラノ・リサイタルを聴きに行った。場所は越谷市のサンシティホール(小ホール)であった。当日の曲目は次のページにある:

[幸田浩子ソプラノ・リサイタル【アンコール曲情報】:http://www.suncityhall.jp/report/post_1186.html]

補足すると、当初の予定では「中田喜直(阪田寛夫:詞) はなやぐ朝」が歌われる予定だったが、代わりに「團伊玖磨(江間章子:詞) 花の街」が歌われた。差し替えた理由は、幸田さんいわく、「春らしい曲がいいと思って」。

前半でちょっと驚いたのは、「伊藤康英(金子みすゞ:詞) このみち」の伴奏だった。点描風に置かれる和音が、フォーレの歌曲、たとえば「秘密」などの伴奏と似ていた。伊藤康英は主に吹奏楽の作品で知られる作曲家だが、このような静かな曲も書いているとは知らなかった。

後半はプッチーニの作品が歌われた。最後の《私の名はミミ》を聴きながら、合唱団に席を置いていた数十年まえのことを思い出した。合唱団のあるソプラノが内輪の発表会で歌うというので私がピアノで伴奏したのだった。つたない私の伴奏にソプラノはいろいろ的確な指示を出してくれて、私も少しだけ歌の伴奏で成長したような気がした。そんな昔を懐かしがっている私は、もう爺さんになったということなのか。

発表会に出る2020/11/15 15:54:59

私はチェロを先生について習っている。先生につくとたいてい発表会というのがある。その先生の門下生が集まって、日ごろの練習の成果を披露する催しである。その先生のところでも発表会がある。わたしは何を考えたのか、発表会に出ることを決めた。昨日が、その日だった。その日を迎えたので、サボるわけにはいかず、発表会の会場にチェロを担いで行った。そこで私は何を弾いたか。フォーレの「チェロとピアノのためのソナタ第1番」の第2楽章だ。なぜ「チェロソナタ」と書かなかったかというと、正しくはチェロとピアノのためのソナタであることを知らせたかったからだ。そして、ピアノは伴奏ではなく対等な立場であるということをはっきりさせたかったからだ。これは、音楽全体が不首尾なできに終わったときに、チェロだけでなく、ピアノにも責任を負わせたいという極めて不埒な考えに基づく。

結果はどうだったか。チェロは弾くというレベルではなく、弦を弓でこするだけという始末であった。ピアノはしっかり鳴っていたので、題名で責任逃れをしたいという目論見は見事打ち砕かれた。これに懲りたので、たぶん次回の発表会参加を打診されたら、断るだろう。

発表会なので、他の生徒の演奏を聴くことができた。生徒であるからレベルはさまざまである。自分の演奏ではないので、安心して聴けたのは収穫だった。最後に、先生の演奏もあった。さすがに先生だけのことはあった。

エンドピンの緩みを思い出す2020/09/12 23:00:00

きのうは演奏会中のピアノに起こった話を取り上げたので、今回はチェロの話を取り上げる。

私が聴きに行ったチェロのリサイタルで、ブラームスのチェロソナタ第1番があった。

フィナーレはあの険しい、切迫した2つの楽器の対決である。興味深く聴いていたら、曲の中ほどでチェロのエンドピンが緩んだらしく、チェロがふらついているのがはっきりとわかった。このフィナーレは、チェリストにエンドピンを締めなおす余裕を与えてはいない。チェリストは必死になって両足でチェロを締め付けつつメロディーを保ち続け、最後の音まで到達した。チェロはやんやの喝さいを浴びたように見えた。

この話を昔いた弦楽合奏団の仲間に話をしたら、あるチェリストはソロではなかったがやはり同様の目にあったらしい。私は今まで、エンドピンが緩んだことはないが、気持ちが緩んでいるのかもしれない。

演奏中の咳を思い出す2020/09/11 23:00:00

突然、1990 年前半に聴きに行った演奏会を思い出した。ヴァイオリンとピアノの演奏会で、ヴァイオリンは若手から中堅の日本の名手、ピアノはベテランの日本の演奏者だった。プログラムの最後は、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番、いわゆるクロイツェルだった。最終楽章で乗りのいい、あのテーマが始まって間もなく、ピアニストが咳をしだした。ピアニストの咳は拍子におかまいなく、独立したリズムで、あたかもポアソン分布のように、放たれ続けた。しかしピアニストの奏でる音は一定のテンポで進んでいくのだった。

演奏が終わって、このコンサートに連れて行ってくれた方は「このヴァイオリニストは、つくづくピアニストに恵まれていないよね」と嘆いた。ほかにもこのヴァイオリニストには不運なことがあったのだろうか。