オーケストラの練習に行く2019/12/01 23:51:39

所属しているオーケストラの練習に行った。「フィガロの結婚」序曲を練習しているが、すらすらいかない。

オデュセイアを読み終える2019/12/02 21:47:44

オデュッセイアをやっとのことで読み終えた。全体をまんべんなく読んだとはとても言えず、むしろ拾い読みというほかないので、きちんとした感想を述べるには程遠い。

もともと読もうと思った動機が、フォーレのオペラの題材になったこと、最近読んだモラヴィアの「侮蔑」(「軽蔑」とも)で、オデュッセイアを映画のシナリオとして使うという話が出ていたこと、その他もろもろだったので、いかんせん真剣に読もうという動機に欠けていたことは事実である。おまけに、読んだ本が図書館からの借りていたもので、しかもこの本は全集というためか二段組みに収められているので活字が小さく、文字通り読みにくかったこともある。

いろいろ読みにくかった理由を挙げてきたが、私の頭の能力が足りないというのが一番の原因だと思う。今度読みたくなったときは、少年向きにリライトされたオデュッセイアを借りてこようと思う。

ハイドンのピアノソナタ Hob. XVI/46 を聴く2019/12/03 22:50:02

ハイドンのピアノソナタを聴いた。変イ長調 Hob. XVI/46 という、よく知られたソナタだ。ソナタアルバムに入っているかもしれない。私は練習したことはない。もっぱら聴くだけだ。なぜハイドンが好きなのか、 自分でもよくわからない。

下記はその第3楽章冒頭4小節である。表記法が拙いところが多くあるが、拙さの一部は楽譜浄書システムにその一端がある。例えば全休符を8分休符2個にしているところなどがそうである。本当ならば(不完全小節を除いた)1小節は全休符としたいのだが、このシステムでは すなわち abcjs では、拍子にかかわらず、1小節を8分休符*8としないと全休符の記号にしてくれない。かといってそのように入れると、2小節も休みの記号となってしまう。かといって、1小節に2分休符1つだけいれると、全休の使い方もわからないのか、といわれそうだ。そのため、8譜休符を2個入れてごまかしている。

ハイドンのピアノソナタ Hob. XVI/32 を聴く2019/12/04 22:09:27

ハイドンのピアノソナタロ短調 Hob. XVI/32 を聴いた。こちらはあまり知られていないかもしれない。

下記はその第1楽章の第二主題提示部の13小節から14小節である。なぜか突然左手重苦しい D の主和音を使うのか、不思議である。当時はフォルテピアノだからもっと軽い音が出たのだろう。

なお、原譜では左手の一拍めに白玉(全音符)と同じDの位置にある[D Fis A]の和音もあるのだが、この音符を書くと同時にDで伸ばして全音符で隠れてしまうので、あえてつけなかった。

「マンマ」を練習する2019/12/05 23:01:06

C. A. Bixio によるカンツォーネ「マンマ」を練習した。歌とチェロ、ピアノの三人で行nう。私はピアノ担当である。本番を控え少しだけ練習した。

この Fm6 は面白い。

「愛の挨拶」を練習する2019/12/06 23:24:50

エルガーの「愛の挨拶」を練習した。クラリネットとチェロ、ピアノの三重奏版である。私はピアノ担当である。翌日が本番なので少しだけ練習した。下記はピアノ伴奏部分だけ、最初の2小節だけである。

これだけでも私は恐怖におびえるのだった。右手の和音が均等に出せてテヌートできるだろうか。

ほかの箇所でも、この編曲は今までに経験したどの編曲よりも難しかったのだった。

合唱団の忘年会に行く2019/12/07 23:52:30

私はうぐいすの会という合唱団に属している。いろいろ事情があってこの会を来年から休会させてもらうことにした。そして最後に合唱団で歌ったのが「サリーマライズ」である。

チェロの稽古に行く2019/12/08 18:35:55

某所にチェロの稽古に行った。やはりまだまだいろいろな意味で未熟で、ウェルナー教本が3ページ進んだ。といっても、そのうち2ページは先生とのデュエットである。残り1ページの練習曲は課題が多く残った。

最初の小節はすべて D 線である。G を出すときには、左指を小指を含めてすべての指で押さえることを守ればよい。
次の小節はA だけ開放弦の A 線を弾く。この A を弾く前後で移弦が起きる。移弦は途切れがちなので、なめらかに聞こえるように弓を多く使うこと。
第3小節はH の押さえ方が重要である。A 線上で人差し指で H を押さえたあと、次に D 線上の開放弦を弾くのだが、この人差し指は D 線上の開放弦を弾くまでは離さないこと。D を弾くと同時に A 線上の人差し指を離すと、移弦時に H と D の間に A の開放音が聞こえてしまうからだ。

言われてみればなるほどなのだが、左手のフィンガリングと右手のボウイングの連動がうまくまだいきませんね。

高田尚平の引退を知る2019/12/09 23:07:21

そういえば気持ちの余裕がなくて、プロ将棋界の動向を知ろうとすることがなかった。ちょっと反省してどうなっているのか調べたら、高田尚平七段が引退していたことを知った。私と同世代である。 私が週刊将棋という新聞を買っていたころ、高田氏の連載による講座があった。振り飛車に関して大模様を張っていく独創的な戦法で、マネはできないなと思いつつその構想に感心していた覚えがある。 こうして中高年は引退していくのかと思うと寂しい。

忘年会スルーを考える2019/12/10 23:51:29

世の中では「忘年会スルー」ということばが聞かれるようだ。私の立場は不明確である。

まず、忘年会とはどういうものか。狭い意味では、12 月に行う飲み会で、歓迎会なり壮行会なりという名目がない宴会のことであろう。もう少し付け加えれば、会社なり組織といった、ある程度お固い組織が主催して、なおかつ構成員への参加が明示的あるいは暗黙的に義務付けられる宴会だろう。

そして、忘年会スルーとは、参加を義務付けられた行事に、構成員である当人が参加しないことをいうのだと思う。

さて、忘年会に参加するといいことはどんなことか?悪いことはどんなことか。参加・不参加の根拠はどんなことか? こういった理由をインターネットで見てみた。

すると、忘年会スルーを決めた人の中で多かった意見はこういうものだった:「忘年会でコミュニケーションを深めましょうと偉い人はいうが、そもそもコミュニケーションをとる場所はふだんの仕事の場であるべきだ。忘年会の力を借りるというのは、偉い人にコミュニケーションの力がないことを示しているに等しい。ゆえに私は欠席する」

これは納得できる意見である。事実、組織での忘年会へ行くと、初めこそぎくしゃくしながら偉い人と下の人が話しているが、いつの間にやら会の半ばで偉い人同士が話しはじめ、終わりとなれば偉い人どうしは離れない。当然、下の人も下の人どうしと話している。これは当初の意図ではない。よって、忘年会スルーの意見が出てくる。

それから、忘年会スルーの理由として、酒が嫌い、飲めない、という体質が挙げられる。飲める人も飲めない人も一律同額の費用を請求されるのは飲めない人にとっては割に合わない、と感じるだろう。私は飲んでしまう人間だから、飲めない人には申し訳ない、と心の中で申し訳なく思いながら同額の金を払っている。もちろん、飲んだ人が高めになるような場であれば喜んで支払う。

酒の話の延長にはハラスメントがある。酒を強要するアルコールハラスメント、地位を盾に無理な要求を押し付けるパワーハラスメント、性に関する不愉快な言動をし、強要を迫るセクシャルハラスメントなど、枚挙にいとまがない。

私は忘年会が好きだが、今年は積極的に参加しようかどうか迷っている。12月7日に行われたうぐいすの会は総勢20名程度だった。この程度の人数ならば大丈夫だが、これ以上の人となると体調が悪いため終わりまで持ちこたえられるかどうか、自信がない。

勤務先組織の忘年会は事情があり行けない。これははっきりしている。問題はもう一つの忘年会である。私は勤務先組織に準じる集団に属していて、このプロジェクトが12月に完了する。そしてその打ち上げが忘年会の体をとっている。忘年会の場所を確保する都合上予備的に出欠の意向を聴かれた時には欠席の返事をした。体調が悪く、大人数での宴席は耐えられないと判断したためだ。しかし、正式出欠を聞かれた時は、一次会だけ出席することにした。大人数のでの宴席は耐えられないとしても、この集団での私の立場は、コミュニケーションを円滑におこなう立場にある。ということで、酒の力を借りる、という、忘年会スルーの人からすれば唾棄すべき目的のために出席を選んだのだった。これは悩んだ結果の決断だった。

さて、私が悩んでいる、一番の大きな悩みがある。これは忘年会だけでなく宴席によくあることなのだが、食べ物の残り物だ。私はこれが嫌いで自分が不健康になることを顧みず自分の食べ物から共通の食べ物まで食べて、さらにそれらを食べつくしたときは人の食べくさしまで食べることにしている。ところが私を目ざとく見つけて話しかけてくる変わり者がいる。すると、受け答えをしないといけなくなり、残り物が食べられなくなった私は、コミュニケーションも食べ物も中途半端な状態になってしまうのだ。

こんどの集団での忘年会で私は、どのようにふるまおうか。コミュニケーションは人に任せて、私は食べ物を食べつくすことに専念しようか。すると、忘年会に参加する意味がないような気がした。