呼称を考える2019/08/18 18:56:42

今日は自分にとって深刻な問題を考える。 今朝の東京新聞の社会面(28面)に次の記事があった。

☗谷川九段 歴代3位タイ1324勝

将棋の谷川浩司九段(57)は、十七日、大阪市の関西将棋会館で刺された第六十九期王将戦二次予選で高見泰地七段(26)を破り、歴代三位の加藤一二三・九段(79)と並ぶ公式戦通算千三百二十四勝目(八百五十一敗)を挙げた。

一位は羽生善治九段(48)の千四百三十八勝(五百九十四敗) = 未放送のテレビ対局は除く = で、二位は故大山康晴十五世名人の千四百三十三勝(七百八十一敗)。対局後、谷川九段は「羽生先生、大山先生まではまだ遠いですが、一局一局を大事に戦っていきたい」と話した。(後略)

ここで気になるのは、羽生九段のことを「羽生先生」と言っていることだ。大山十五世名人は大先輩でもあるので、先生という呼称を使うのは当然だろう。しかし、羽生九段は年は下だから先生をつけなくてもよいともいえる。しかし、大山先生を超える戦績を残しているのだから、やはり羽生九段にも当然、先生という呼称を使うことにしたのだろう。いや、これは下種の勘繰りだろう。偉大な記録を残した棋士だから、羽生先生、という呼称が当然のように出てきた、と考えるのが素直なのだろう。

以下はあえて敬称を省くが、むかしむかしの谷川の著書を思い出した。当時は複数のタイトルを保持していて、著書では、羽生君、と書かれていた。そののち、谷川は保持していたタイトルを次々と羽生に奪われた。インタビューを受けた谷川は、羽生さん、ということばで答えていた。そして今では、羽生先生である。勝負の世界は、かくも残酷である。

会社勤めの私には、年下で偉い人がたくさんいる。正確にいえば、年上はみな偉い人であり、年下でも私より偉い人のほうがほとんどだ。たまたま、私の職場では職位に関係なくさんづけで呼ぶのが通例なので、年上、年下、職位の上下にかかわらずさんづけで呼ぶ。ただ、親しい人にはくんづけで呼ぶこともあるが、わたしより偉い人なのでうっかり口に出してしまった場合は反省し、以後はさんづけで呼ぶようにしている。これは、当人を目の前にした二人称だけではなく、当人がその場にいない、三人称のときにも同様にさん付で呼ぶようにしている。ついでにいえば会社外のつきあいでも老若男女にかかわらずさんづけにしている。

私はぼんやりと生きてきたからその報いを受けて世捨て人のようにこのように身を処しているが、別段後悔はしていない。